引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1615126005/
みんなの知ってるやつ教えて
トムラウシ山遭難事故 より
7月15日
3時ごろからごそごそする女性客にリーダー甲が注意。5時出発。天候は一変し朝から大雨で、風はなく体感温度は低くなかった。全員雨具着用。体調が悪いものはいなかったが、61歳女性客gだけはこの朝もスープとお茶のみであった。
パーティは忠別岳、五色岳、化雲岳を経由し、16キロの道のりをコース予定時刻よりも早い10時間弱で歩き、ヒサゴ沼避難小屋に15時前に到着した。この間天候が悪化し、登山道は川のようになっていて歩きにくく通過に時間を取られた。体の冷えを防ぐため、休憩は5分程度の立ち休みで進んだ。
ヒサゴ沼避難小屋で一緒になった静岡のパーティによれば、特別疲れた様子もなくわいわいと楽しそうにしていたという。しかし小屋の中は雨漏りだらけな上に充分なスペースもなかった。そのため濡れた装備を乾かすこともできず、ずぶ濡れの寝袋に包まって横になっただけであった。展望もない登山で泥道を長時間歩いたため、皆疲労困憊していた。19~20時ごろ就寝。
7月16日午前3時45分起床。午前5時の出発予定であったが、天候悪化のため雨と風が強く待機。リーダー甲は天気の回復具合や出発直後の雪渓の登りを考慮し、出発を30分遅らせる判断をして全員に伝えた。
ガイド乙らはラジオで十勝地方の予報「曇り、昼過ぎから晴れ」と聞き、午後から天候は好転すると見越して出発を決定した。しかし、客の何人かはこの決定に不安を感じたという。
昨夜は吹き込む雨で寝袋が濡れた女性客は1日滞在しても命には代えられないと感じ、別の女性客も「こんな天候の日に行くのか」と感じ、別の男性客Bは逆に風雨は強いが出発するころには断続的になっていたことから不安はなかったとのちに述懐するなど、見方が分かれた。
5時半、リーダー甲が今日はトムラウシ山には登らず、迂回コースをとると伝える。「僕たちの仕事は山に登ることじゃなく、皆さんを無事山から下すことです」と説明した。なお避難小屋には同会社の別ツアーの客が午後に到着する予定であったため、炊事用具と10人用テント1張、4人用テント1張を置いていった。
出発からおよそ3時間後の8時30分ごろ、パーティはロックガーデンに到着した。ロックガーデンは北沼手前の一面の岩礫帯だが、ここまでですでに通常の倍近い時間がかかっていた。依然風雨が強く、岩場であるため足並みが乱れ始めながらもまだまとまって進んでいた。
9時30分頃、ロックガーデン途中で静岡のパーティが追い抜いていった。この頃から66歳の男性客Eの歩行がふらふらし始め、そのうちに気力を失い座り込むようになった。一行はロックガーデンが終わった先の沢状の窪地で風を避け休憩、食事と水分補給をした。その上の広い平らな場所で風がいっそう強くなった。
10時ごろ、通常なら3時間のところを6時間近くかけて山頂下の北沼に到着した。北沼の様相は一変しており、大雨で沼から溢れた水が大きな川(幅約2メートル、水深は膝ぐらいまで)となり登山道を横切っていた。一行は川の中に立ったガイド乙とガイド丙の助けを借り何とか渡りきるが、パーティ全員が渡りきるまで吹きさらしの場所で待機することになり、多くの人がずぶ濡れになっていた。
その際、川に入っていたガイド丙は客を支えている際によろめいて全身を濡らし、低体温症の加速を促した。これが特にガイド間の情報共有・判断に影響を与え、後述するコミュニケーション不足にもつながっていった。
午前10時半ごろ、北沼の川を渡ったすぐ先の分岐手前で68歳の女性客fが低体温症のため歩行困難となった。ガイドらが懸命に体をさすったり声をかけたりしたが、ガイドらの声かけにもあまり反応しなくなり意識が薄れていった。渡渉時点では低体温症の典型的な前兆がなく、急激だった。
ガイド達がfの対応に追われている間、一行はガイドの指示によりその場で1時間から2時間近く待機させられた。 一行は座り込んだ人を囲んで風よけを作ったが、「寒い、寒い」と叫び声を上げる女性客も居た。さらに62歳の女性客dが嘔吐し奇声を発し始めたため、男性客Cはリーダー甲に対して「これは遭難だ。救援を要請しろ」と怒鳴った。
結局一行は男性客Dが所持していたツェルト(小型の簡易テント)を設営し、リーダー甲が歩行困難の女性客fに付き添うために残り、他のメンバーは先に進んだ。
前設営地から距離を置かずして女性客hが意識不明に陥った。ガイド乙はここで岩陰を探して所持していたツェルトを設営し、女性客に加えて歩行困難になった女性客2人と付き添いの男性客、ガイド乙(メインガイド)の計5人がこの場でビバーク(緊急野営)することとなった。
この場でも客から救助要請の要望が出たという。
トムラウシ山遭難事故 Wikipediaより
ディアトロフ峠事件 より
ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。
ディアトロフ峠事件 Wikipediaより
事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠)と呼ばれるようになった。
事件発生まで
一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校、現在のウラル工科大学の学生か卒業生だった。
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
1月25日
スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロ北方にある最後の有人集落、ヴィジャイに到着。そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。
1月31日
未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされている。
たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている。
捜索と発見
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れはつきものだったためである。2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った。その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。(以下略)
それ未解決か?
三毛別羆事件
三毛別羆事件(さんけべつヒグマじけん)とは、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した、クマの獣害としては日本史上最悪の被害を出した事件。
三毛別事件や六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。
事件の経緯
事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。
なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた人はいない。
【池田家の騒動】
1913px年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。
飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。
村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。
11月20日、ふたたびヒグマが現れた。
馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。
30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。
その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
マタギたちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。
さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
【明景家の惨劇】
(中略)
ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。
追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。
ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。
(以下略)
三毛別羆事件 Wikipediaより
ドナー隊
ドナー隊(Donner Party)、あるいはドナー=リード隊(Donner-Reed Party)とは、1846年5月にアメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。
ドナー隊 Wikipediaより
さまざまな事件や誤りのために旅程は大幅に遅れ、1846年~1847年の冬をシエラネバダ山脈で雪に閉ざされて過ごすことになり、事実上の遭難状態に陥った。開拓民の一部は生存のため人肉食に及んだ。この一件を指して特に「ドナー隊(遭難)事件」「ドナー隊の悲劇」と呼称されることもある。
【概要】
19世紀半ば当時、アメリカ東部から西部への幌馬車による旅は通常4~6か月を要した。しかしドナー隊はユタ州のワサッチ山脈とグレートソルトレイク砂漠を横断するヘイスティングスの近道と呼ばれる新ルートを選択した結果、大幅な遅れを出すことになった。荒れた地形と、今日のネバダ州内にあたるフンボルト川(英語版)沿いの旅程で遭遇したさまざまな困難のために、多数の家畜と幌馬車が失われ、グループ内にも分裂が生じた。
1846年11月初頭、一行はシエラネバダ山脈に差しかかる。しかし早い冬の訪れにともなう大雪に見舞われ、高地に位置するトラッキー湖(現・ドナー湖)付近で雪に閉ざされてしまう。やがて著しい食料不足に陥り、12月半ばの時点で幾人かは救けを求めて徒歩で出発した。カリフォルニアから救援が出発したが、救助隊によるドナー隊の発見は1847年2月半ばまで遅れ、この間一行が遭難してからほぼ4か月が経過していた。結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアに着いたのは48人であり、多数が生存のため人肉を食べていた。
歴史家は、これをカリフォルニア史と西部開拓史におけるもっとも奇怪で耳目を引く悲劇的事件のひとつとしている。(以下略)
なんそれ
吾妻連峰雪山遭難事故
吾妻連峰雪山遭難事故とは、1994年(平成6年)2月13日早朝から翌日にかけて福島・山形両県にまたがる吾妻連峰が猛吹雪に見舞われ、登山者5名が低体温症で死亡した事故。吾妻連峰での山岳遭難事故としては最悪の事故となった。
吾妻連峰雪山遭難事故 Wikipediaより
経過
【計画】
パーティーは30代から60代の男性2人と女性5人(当記事では、リーダーと男性A、女性BとCを中心に解説する)。リーダーは登山歴30年で山岳ガイド資格もある新聞社勤務の男性で、同じルートを以前に二度経験していた。またメンバー全てに登山経験があった。三連休を利用して山スキーで福島市の高湯より吾妻連峰を縦走し、山形県米沢市の滑川温泉に到着するルートだった。
【2月11日(祝日)】
東京駅より新幹線で出発しようとするも、速達便「やまびこ」が満席だったため各駅停車の「あおば」乗車となり、予定より30分遅れで福島駅に到着到達。
福島駅ではスキーを積むキャリアー付きタクシーが無く、急遽、マイクロバスをチャーターし、さらに30分待ち時間が発生する。ここまでのタイムロスを挽回すべく、当初の計画である吾妻高湯スキー場入口までではなく、極力、登山口の近くまでマイクロバスを走らせてほしい旨を運転手に要望。運転手は、路面凍結のためバスが登山口近くまで行けない可能性が高いので、麓の吾妻スキー場入口で降りてリフトを乗り継ぐ形による入山を勧め、スキー場入口で一度車を停め説得もしたが、リーダーの強い要望に折れる形でバスを先に進めた。
しかし運転手の懸念通り、道路凍結が起きており、メンバーは最終的に吾妻高湯スキー場入口から1km先でマイクロバスを下車した。当初は下車地点から直接歩いて登山口へ向かおうとしたが、路面凍結で登山口到着が大幅に遅れる可能性が高いと判断。結局は当初予定の吾妻高湯スキー場入口まで徒歩で戻る形となり、さらに30分のタイムロスを発生させた。
リフトを利用して先に進もうとしたが、当時は4本あるリフトのうち2本(2本目と4本目)が強風で停止しており、メンバー7人は動いていた1本目と3本目リフトに乗り、止まっていた区間は標高差約200mの急な坂道をスキー板で1km以上歩いて登山口へ向かった。このため、7人は3本目のリフトを降りたあと4本目に乗らず直接登山口へ向かい、結果として登山者カード提出場所となっている4本目リフト搭乗口を経由せず、登山者カード未提出で入山する形になり、後述の通り、捜索の際の登山ルート等の判明に時間を要することとなった。
このように時間のロスが発生していたが、道中にある設備の整った山小屋「慶応吾妻山荘」を通らず、当初の計画通り、緊急時の避難施設に過ぎない「家形山避難小屋」へ向かうことを優先した。しかも避難小屋に到着後、休息に入るのではなく、すぐに宴会を始め、それを22時まで続けた。
この日の夜、慶応吾妻山荘では、「中国大陸からの雨雲と寒気を伴った強い(急速に発達した)低気圧の接近により、太平洋側で大雪のおそれがある」旨がラジオの天気予報で報じられたことから、管理人は「山は間違いなく大荒れになる」と判断。宿泊客全員に、翌日は下山するか早朝に出発し、天候悪化の兆しが出たら直ちに戻るよう進言した。これを受け山荘に宿泊した全てのパーティーが翌日は下山するか、早朝に出発している。一方、家形山避難小屋のパーティー7人は誰もラジオを持っておらず、慶応吾妻山荘も素通りしたため、天気予報など翌日の天候に関する情報が一切得られなかった。
【2月12日(土)】
天候によっては引き返す可能性があったが、好天だったため朝8時30分に出発。しかしこれは擬似好天だった。出発が遅かった上に普段より雪が積もっており、予定より2時間以上遅い正午に白浜尾根へ到着。穏やかだった天候は午後から急変。2㎞先の山形県側にある霧の平を目差すが、分岐点の杭を見つけられないまま彷徨。この間、スキー板のクライミングスキン(シール)が剥がれるメンバーが続出。その際、剥がれたシールを粘着テープで留める応急処置は1人あたり10~20分を要し、その間、他のメンバーは猛吹雪の中で待たされ、体力を消耗させた。
最終的には白浜から霧の平まで予定1時間の行程に6時間以上彷徨い、夜になった。白浜の北側、尾根から外れた雪の窪みがある木にスキー板と銀マットを渡して簡易のテントを作り、ビバークする。この時点ではまだ余裕があり、メンバーは「ビバークしたことを家族や友人に内緒にしよう」と冗談まじりに話していた。コンロや食料は十分にあった。しかし天候はますます悪化し、夜はマイナス10℃以下まで冷え込んだ上、重なった疲労がメンバーの体力を奪いつつあった。
【2月13日(日)】
猛吹雪が続いていたが、メンバーは翌日に出勤しなければならないため、天候の回復を待たずに7時から下山を強行。約1.2km離れた家形山避難小屋まで戻ろうとしたが、8時過ぎに白浜に差し掛かると、西からの暴風のため進めず、徒歩で通過を図り、6人は何とか樹林帯まで到達したが、女性メンバー1人が尾根の途中で低体温症により動けなくなる。Aが女性のザックを回収したが女性はなお歩けず、再びAが駆け寄った直後に女性は意識不明に陥ったため、寝袋に入れて、残りのメンバーで引っ張ろうとしたが、暴風のため途中で断念し、パーティー全員がその場に留まる事態に。風除けのため雪洞を掘ろうとしたが、シャベル等が無かったため、リーダーら男性2人が食器などで雪を掘り、夜を迎える。この間にさらに女性2人の意識が薄れた。
22時に3つの雪洞を掘り終えるも、リーダーが疲労のためうっかり雪洞を一つ崩してしまい、Aが彼のために新たに雪洞を掘った。この際、リーダーは目が見えなくなっており、Aへ、自分たちの死を予感する言葉を残した。AはB、Cが入っていた雪洞に頭だけ入れた状態で一夜を過ごした。
【2月14日(月)】
東京の天候は回復していたが、吾妻連峰では強い西からの吹雪が吹き続く。朝8時の時点で意識があったのは、男性Aと女性B、Cの計3人。リーダーを含む残る4人はAの呼びかけに一切反応せず、体は硬直しており、低体温症によりおそらく死亡していた。3人は救助隊を呼ぶため下山を決意して出発の準備をしたが、そのうち女性Cは動けそうにないと、白浜に残ることを訴えた。Aが説得を試みたが、Cは感謝の言葉と共に、「心残りはないからここに居る、だから二人で行って」と結果として遺言となる言葉を残した。残る男女2人で9時に白浜を離れ、雪崩の危険がある西側の谷を下りていくが力尽き、結局16時過ぎにビバークする。
同日朝、13日の夜になっても吾妻連峰登山パーティーから連絡が来ないのを心配していた首都圏在住の山仲間は、福島の関係者に電話したところ、現地の天候が非常に悪いことを知らされた。さらに参加者それぞれの自宅へ電話したものの、留守電、または繋がらない状態だった。このため山仲間は、分かる範囲で6人の参加者の名前と住所を紙に書き福島県警本部に宛ててFAX送信。これが最初の捜索願提出となる。この時点で判明していたのは宿泊予定地の滑川温泉のみだった。これを受け福島・山形両県警などは最初、吾妻スキー場内4本目リフト搭乗口を含む登山口で提出された登山者カードを全て調べたものの、前述のとおりそもそも提出していないため、通報のあった者の名前の記載のあるカードは見つからなかった。そこで、登山計画書の記入・提出を経て入山した他の登山者からの目撃証言をもとに、6人のルートを突き止めて捜索活動を開始。地元のラジオ福島(RFC)や山形放送(YBC)でも呼びかけが行われたが、前述のとおり彼らはラジオを持っていなかったため、伝わりようがなかった。
夜に氏名が分からなかったCの家族が警察(警視庁蒲田署)に捜索願を出し、6人と同じ登山計画(吾妻高湯スキー場→家形山避難小屋→滑川温泉)を記したメモを見つけ、それを警察へ提供したことでようやく7人全員の身元が判明した。
【2月15日(火)】
前日とは一転して吾妻連峰は晴れ間が広がっていたが、強風が続いていた。吾妻山荘には警察(福島・山形両県警)および自衛隊の捜索隊の他、地元の山岳会などで編成された民間の捜索隊が集まり、吾妻ロッジと福島警察署庭塚駐在所に現地指揮本部を立ち上げ、朝8時30分から捜索を開始。
13時過ぎ、下山を続けていた2人はひどい凍傷になりながらも自力で滑川温泉にたどり着いたが、男性Aは右手の指一本を切断する重傷、女性Bは手足の痺れなど後遺症が残った。彼らの証言による捜索の結果、メンバーのビバーク地点を自衛隊ヘリが特定し、上空より雪洞・リュック・スキーを発見。15時過ぎに福島・山形両県境の白浜で女性Cを含むメンバー5人全員が遺体で発見・収容された。【以下略】
「アホすぎやろw」とか「いや、自分でもこうなるだろうな」とか思いながら読むわ
ヴォイニッチ手稿ってもう解決されたんやっけ
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