引用元: https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/editorialplus/1610248326/
「聖地巡礼」に沸く雲取山 鬼滅の刃・炭治郎のルーツ 山梨・丹波山村 https://t.co/iHX2OQSTtH
— 毎日新聞ニュース (@mainichijpnews) January 10, 2021
https://mainichi.jp/articles/20210110/k00/00m/040/025000c
鬼滅ファンの“聖地巡礼”に沸くのは、雲取山の登山口の一つがある、ふもとの山梨県丹波山村だ。村中心部の「道の駅たばやま」では、従業員らが炭治郎の羽織と同じ市松模様の法被姿で観光客を出迎える。「鬼滅ブームに乗って村をPRしたい」と、道の駅では駐車場や登山口につながる林道沿いなどに「丹波山村 雲取山」とデザインされたのぼり旗を立てたり、売店で鬼滅関連グッズを販売したりもしている。
引用元:https://cdn.mainichi.jp/vol1/2021/01/10/20210110ddlk09040309000p/9.jpg

雲取山
雲取山は、東京都・埼玉県・山梨県の境界にある標高2,017.13mの山。東京の山で2000mを越えるのは、この山のみとなっている。
秩父多摩甲斐国立公園の代表的な山の一つで、日本百名山に選ばれている。
1都2県にまたがるとともに、東京都の最高峰・最西端の山でもある。山頂には一等三角点が設置されている。見晴らしが良く、周辺の山々のほか富士山、南アルプス、関東平野方面なども見ることができる。妙法が岳、白岩山とともに三峰山の三山の一つである。山頂の北西は埼玉県、南西は山梨県と三都県の境をなしている。
【水源林】
1901年(明治34年)、東京府東京市(現在の東京都)は、水源地保全のため、多摩川を囲む山地4万8千ha余りを山梨県から購入した。大正末から昭和6年(1931年)にかけて、ススキの原だった雲取山周辺の稜線に、落葉松の苗木を植林した。
現在は東京都側と山梨県側の山林が、東京都水道局の水源林(東京都水源林)となっている。
- 以前は山頂の標識が2カ所あった。2016年に「山の日」施行記念や老朽化に伴う更新のため、東京都と埼玉県が標識を統一した。
- 2017年は西暦年数と、標高のメートル数が同じであることから、記念登山への人気が高まった。2016年末には周辺3都県の山岳連盟により、山頂付近に1年間限定の記念碑「雲取山西暦二千十七年」が建てられた。
- 雲取山は通常は2日行程で登山するが、健脚ならばコースによっては日帰りも可能である。ただし、日帰り登山は早朝に登り始めないと下山時には日が落ちる。
- 日原林道は車両通行止めのことがある。地元では林道をマイカーで走るのは自重するように促している。
- 後山林道は一般車両やタクシーは通行禁止。日原林道終点〜大ダワ間は登山道としても完全通行止め。
- 登山計画書は、駅や登山口などに設置された登山届ポストや、警察署・交番・駐在所で受け付けている。警察署には郵送も可能である。埼玉県・山梨県はインターネットでも受け付けている。
- 冬期に滑落する事故が発生しており、秩父環境管理事務所は『雲取山安全登山マップ』を配布し、注意を呼びかけている。
- 奥多摩小屋近くの東側斜面で大量のごみが2016年に見つかった。多くは1960~70年代頃に捨てられたとみられる空き缶や空き瓶、食品の袋などで、クマザサが枯れたことで露出。撤去が進められている。
- 奥多摩で「日本百名山」に入っている唯一の山である。
雲取山 Wikipediaより

所要時間:登り3時間40分 下り2時間30分 (往路は七ツ石山頂を回避するコース)
鴨沢登山口を起点に、七ツ石山にある七ツ石神社を通り、ブナ坂の奥多摩・日原への分岐点までのコースで、全10か所で平将門悲話が書かれた看板を読むことができます。
山賊さんの山でしたよね
花魁淵
【アクセス】
花魁淵 Wikipediaより
花魁淵は山梨県甲州市の国道411号沿いにあったが、花魁淵付近は地形が険しく、崖崩れによる通行止めもたびたび発生していたため、2011年11月21日に付近の国道は複数のトンネルを含むバイパス道路に変更され、花魁淵前の道路は現在旧道となっている。また、旧道はバイパスの開通と同時に厳重に閉鎖され立入禁止となっており(従って現在は花魁淵に近づくことができない)、山梨県による廃道化工事が行われる予定である。
【由来と背景】
武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した。
この伝説にはもう一説あり、原全教著(山小屋四十号)には、「足手まといの坊主と遊女のうち、遊女は藤尾橋の少し下流の淵へ叩き込んだ。今そこを五十五人淵という。(割愛)坊さんは全部で十二人、これは今坊主淵の称のある深淵へ叩き込んだ」とあり、遊女のほかに坊主も殺害されたと書いている。
比留間とくえ著「民間の伝承 おいらん淵 武田勝頼戦国動乱の蔭に」では、「実際に事があったのは落合に近い藤尾橋の付近である事は、郷土史家たちの一致した意見である。」と記してあり、泉昌彦著「伝説と怪談シリーズ第1集」にも「藤尾橋下のカーブのところである。」と記されていることから今の場所ではなかったことがわかる。
今の花魁淵にある立正佼成会の支部が建立した慰霊碑は、東京都水源林に勤めていた中川金治氏が、伝説にふさわしい場所ということで移し替えたものである(一説には青梅街道の傍らに慰霊碑があって、通行の妨げにことから移し替えたとされる)。このような調査、事実から、花魁淵は現在の場所ではなく藤尾橋の付近である。
今の花魁淵は、明治十年に東京市水道局の中川金次郎氏(一説には東京市助役田島勝太郎氏)が水源地を作るため最初にこの土地を訪れた時この淵を見て「ああいい淵だな、まるでおいらんがきれいにお化粧して夜店の前に出たようだな。」と形容したことから語り継がれているとされている。
下流の丹波山村には、この際の遊女たちの遺体を引き上げて供養したとされる小祠が明治四十年まであり、小祠の中にはやり手婆を中にして両側に五十五人のおいらんが居並ぶ木像があったが水害で長らく失われ、1988年(昭和63年)に再建されている(西東京バス丹波バス停下車、徒歩15分)。
あと登りきった時の爽快感がとても少ない
うん、だから聖地巡礼としての付加価値が付くと皆が登るってことでしょ
アイスバーンで厳しいよ
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