引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1607695954/


books-698480_640

25: 風吹けば名無し ID:A1p2SKpm0
ディアトロフ峠事件も楽しい

43: 風吹けば名無し ID:qj1ijPr00
三毛別
ワンダーフォーゲル
ディアトロフ峠
の3強
155: 風吹けば名無し ID:UkOOjfXV0
ロシアだがどっかの遭難した大学生かなんかが全滅する話好きなんやが

293: 風吹けば名無し ID:hQG1yziL0
海外の方が面白そうな事件ありそうやけど日本のwikiだと載ってないかね

305: 風吹けば名無し ID:MyPvzWAX0
>>293
ロシアだかウクライナだかで謎全滅した若者パーティとかあったなー

333: 風吹けば名無し ID:MyPvzWAX0
ディアトロフ峠事件

1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げた。

一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた[2]。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。
339: 風吹けば名無し ID:UkOOjfXV0
>>333
これやこれなんか映画化されてたな

368: 風吹けば名無し ID:XDOgc06o0
>>333
これ宇宙人の仕業じゃなかった?

441: 風吹けば名無し ID:zJa6I+Bt0
>>333

事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されている。
当時のソ連の捜査当局は「抗いがたい自然の力」によって9人が死に至ったとし[3]、
事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた。

ソ連を引き継いだロシア連邦の最高検察庁は2020年7月13日、雪崩が原因との見解を示した。 

いったいどういうことなの……

452: 風吹けば名無し ID:2txQsazR0
>>333
これロシア警察が最近雪崩説って結論出してたけど
「死に山」のカルマン渦列による超低周波説が知的かつ説得力あって一番すき

   

ディアトロフ峠事件


ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。
事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、Игорь Дятлов)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、Перевал Дятлова)と呼ばれるようになった。

事件発生まで
一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校 (Уральский Политехнический Институт, УПИ)、現在のウラル工科大学の学生か卒業生だった。

一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン(ロシア語版)山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。

1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロ北方にある最後の有人集落、ヴィジャイ(ロシア語版)に到着。そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。
しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。

1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。
適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。
彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされている。
たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている。

捜索と発見
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。
しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しなかった。
こうした遠征では数日の遅れはつきものだったためである。2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った。その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。(以下略)

ディアトロフ峠事件  Wikipediaより


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33: 風吹けば名無し ID:afliMGUp0
トムラウシ遭難とか吾妻連峰遭難とかも定期的に見てしまう

34: 風吹けば名無し ID:kZzblvNO0
トムラウシの事故報告はかなり読み応えあるで
204: 風吹けば名無し ID:sQ+Oy/NJ0
トムラウシ山の遭難事件の記事も怖かったわ

238: 風吹けば名無し ID:9/2U7QVd0
トムラウシはガイドばかり責められたみたいやけど 
客がなかなかなんだよな

266: 風吹けば名無し ID:kQOYbTQdx
登山でたくさん死ぬやつ面白かった
288: 風吹けば名無し ID:kQOYbTQdx
トムラウシ山遭難事件 
段々脱落していくデスゲーム読んでる感じになるわ

474: 風吹けば名無し ID:8FS9Roma0
トムラウシは全部読んで 
やっぱモンベル最強だわ… 
っていう販促やぞ

トムラウシ山遭難事故


トムラウシ山遭難事故とは、2009年7月16日早朝から夕方にかけて北海道大雪山系トムラウシ山が悪天候に見舞われ、ツアーガイドを含む登山者8名が低体温症で死亡した事故。夏山の山岳遭難事故としては近年まれにみる数の死者を出した惨事となった。

この事件ではのちに、日本山岳ガイド協会による第三者で構成する特別委員会「トムラウシ山遭難事故調査特別委員会」が設置され、2009年8月25日から5日間にわたり、金田正樹医師をリーダーとする4名のチームが2班に分かれ、遭難事故グループの行動や事故の事実関係を調査し、有識者の意見とともに報告書にまとめられた。

経過
同ツアーは募集型企画旅行形態で国内外の登山ツアーやエコツーリズムを取り扱う旅行代理店アミューズトラベル株式会社(本社:東京都千代田区神田駿河台、観光庁長官登録旅行業第1-1366号)が主催した企画旅行であった。
旅程ではトムラウシ山や旭岳などを2泊3日で縦走する予定であり、50 - 60代の客15人(男性5人(A、B、C、D、E)、女性10人(a、b、c、d、e、f、g、h、i、j))とガイド甲(添乗員兼ガイドリーダー)、乙(メインガイド)、丙(サブガイド)の3人が参加していた。ガイドのうち甲、丙の2人は今回のコースは初めてだったという。途中、7月16日朝、雪渓を過ぎた主稜線ヒサゴ沼分岐までネパール人のシェルパが同行している。

以下、記述中の日付時刻はすべて日本標準時間である。

山行計画
旭岳温泉を起点として、旭岳ロープウェイを利用し、標高1,600メートルの姿見駅(山頂駅)から歩き始め、白雲岳避難小屋とヒサゴ沼避難小屋を利用しながら大雪山系の主稜線を縦走し、トムラウシ温泉へ下山する2泊3日の登山行動を予定していた。以下がその登山ルートと距離である。
・登山1日目(7月14日 - 歩行距離12.4キロ):旭岳温泉 -(旭岳ロープウェイ)- 姿見平駅 - 旭岳 - 間宮岳 - 北海岳 - 白雲岳避難小屋 - 白雲岳 - 白雲岳避難小屋(宿泊、収容人数60人の避難小屋)
・登山2日目(7月15日 - 歩行距離16.3キロ):白雲岳避難小屋 - 高根ヶ原 - 忠別岳 - 五色岳 - 化雲岳 - ヒサゴ沼避難小屋(宿泊、収容人数30人の避難小屋)
・登山3日目(7月16日 - 歩行距離16.0キロ):ヒサゴ沼避難小屋 - 日本庭園 - 北沼 - トムラウシ山 - 南沼 - トムラウシ公園 - 前トム平 - トムラウシ温泉

7月13日
参加者は広島、中部、仙台の各空港より新千歳空港に集まったあと、チャーターしたバスで当日の宿泊先である東川町の旭岳温泉白樺荘に向かった。天気予報を部屋のテレビで確認し、ガイド乙が14日は大丈夫だが15日、16日は崩れるだろうと予測した。

7月14日 朝5時50分に予定通り出発した。
パーティは旭岳ロープウェー姿見駅から旭岳山頂、間宮岳、松田岳、北海岳、白雲岳を12キロの道のりを経て白雲岳避難小屋に宿泊した。
当日はガスがかかっていたものの晴れており、旭岳山頂からトムラウシ山も見えていたが、5~6合目付近の約30分間は、体が持っていかれそうでまっすぐ歩きづらいほどの強風であったが、山頂では風は弱まった。
なお登頂後、女性客の1人が嘔吐した。夜から雨が降り始め、リーダー甲とガイド乙が管理人にあいさつし1階部分を使った。一行らにこやかに談笑したが、61歳の女性客gはほとんど食べられずスープとお茶だけを飲んだ。
夕食後、スタッフ3人での打ち合わせが行われた。携帯電話の天気サイトで天気予報を確認したところ、翌日の午後には寒冷前線が通過し天気が悪化することを知り、雷を恐れ出発時間を30分早める決定をした。18時過ぎに就寝。
7月15日
3時ごろからごそごそする女性客にリーダー甲が注意。
5時出発。天候は一変し朝から大雨で、風はなく体感温度は低くなかった。
全員雨具着用。体調が悪いものはいなかったが、61歳女性客gだけはこの朝もスープとお茶のみであった。
パーティは忠別岳、五色岳、化雲岳を経由し、16キロの道のりをコース予定時刻よりも早い10時間弱で歩き、ヒサゴ沼避難小屋に15時前に到着した。この間天候が悪化し、登山道は川のようになっていて歩きにくく通過に時間を取られた。体の冷えを防ぐため、休憩は5分程度の立ち休みで進んだ。
ヒサゴ沼避難小屋で一緒になった静岡のパーティによれば、特別疲れた様子もなくわいわいと楽しそうにしていたという。しかし小屋の中は雨漏りだらけな上に充分なスペースもなかった。そのため濡れた装備を乾かすこともできず、ずぶ濡れの寝袋に包まって横になっただけであった。展望もない登山で泥道を長時間歩いたため、皆疲労困憊していた。19~20時ごろ就寝。

7月15日
午前3時45分起床。午前5時の出発予定であったが、天候悪化のため雨と風が強く待機。

リーダー甲は天気の回復具合や出発直後の雪渓の登りを考慮し、出発を30分遅らせる判断をして全員に伝えた。ガイド乙らはラジオで十勝地方の予報「曇り、昼過ぎから晴れ」と聞き、午後から天候は好転すると見越して出発を決定した。しかし、客の何人かはこの決定に不安を感じたという。昨夜は吹き込む雨で寝袋が濡れた女性客bは1日滞在しても命には代えられないと感じ、別の女性客aも「こんな天候の日に行くのか」と感じ、別の男性客Bは逆に風雨は強いが出発するころには断続的になっていたことから不安はなかったとのちに述懐するなど、見方が分かれた。

 5時半、リーダー甲が今日はトムラウシ山には登らず、迂回コースをとると伝える。「僕たちの仕事は山に登ることじゃなく、皆さんを無事山から下すことです」と説明した。
なお避難小屋には同会社の別ツアーの客が午後に到着する予定であったため、炊事用具と10人用テント1張、4人用テント1張を置いていった。

 一行は午前5時半ごろに避難小屋を出発した。出発後すぐにアイゼンをつけるが、装着に不慣れな者もおり時間がかかった。雪渓はシェルパがスコップでステップを刻んだことでスムーズに通過した。しかし、一部の登山客は既に雪渓通過の時点から歩行が遅れ始めたとする生存者の証言もある。
シェルパは雪渓が終わった場所で別れ、ヒサゴ沼へ戻った。雪渓の終盤から主稜線まではコル地形で西に向かうため風が非常に強くなった。足元に大きな岩があることもあり、風速20~25メートルの強風をまともに受けて転ぶ人が続出し、先頭のガイド乙の声が最後尾まで届かない状況だった。
ガイド丙からは「風が強く吹いたらとにかくしゃがんで」と繰り返し指示が出た。
ガイド乙の証言ではヒサゴ沼は大した風ではなかったため、主稜線まで行く決心をしたが、その時点でもしもの場合は天人峡のエスケープルートをとる腹積もりでいた。

 出発からおよそ3時間後の8時30分ごろ、パーティはロックガーデンに到着した。ロックガーデンは北沼手前の一面の岩礫帯だが、ここまでですでに通常の倍近い時間がかかっていた。依然風雨が強く、岩場であるため足並みが乱れ始めながらもまだまとまって進んでいた。9時30分頃、ロックガーデン途中で静岡のパーティが追い抜いていった。
この頃から66歳の男性客Eの歩行がふらふらし始め、そのうちに気力を失い座り込むようになった。一行はロックガーデンが終わった先の沢状の窪地で風を避け休憩、食事と水分補給をした。その上の広い平らな場所で風がいっそう強くなった。

10時ごろ、通常なら3時間のところを6時間近くかけて山頂下の北沼に到着した。北沼の様相は一変しており、大雨で沼から溢れた水が大きな川(幅約2メートル、水深は膝ぐらいまで)となり登山道を横切っていた。
一行は川の中に立ったガイド乙とガイド丙の助けを借り何とか渡りきるが、パーティ全員が渡りきるまで吹きさらしの場所で待機することになり、多くの人がずぶ濡れになっていた。その際、川に入っていたガイド丙は客を支えている際によろめいて全身を濡らし、低体温症の加速を促した。これが特にガイド間の情報共有・判断に影響を与え、後述するコミュニケーション不足にもつながっていった。
午前10時半ごろ、北沼の川を渡ったすぐ先の分岐手前で68歳の女性客fが低体温症のため歩行困難となった。ガイドらが懸命に体をさすったり声をかけたりしたが、ガイドらの声かけにもあまり反応しなくなり意識が薄れていった。渡渉時点では低体温症の典型的な前兆がなく、急激だった。

ガイド達がfの対応に追われている間、一行はガイドの指示によりその場で1時間から2時間近く[15]待機させられた。一行は座り込んだ人を囲んで風よけを作ったが、「寒い、寒い」と叫び声を上げる女性客も居た。さらに62歳の女性客dが嘔吐し奇声を発し始めたため、男性客Cはリーダー甲に対して「これは遭難だ。救援を要請しろ」と怒鳴った。

結局一行は男性客Dが所持していたツェルト(小型の簡易テント)を設営し、リーダー甲が歩行困難の女性客fに付き添うために残り、他のメンバーは先に進んだ。前設営地から距離を置かずして女性客hが意識不明に陥った。ガイド乙はここで岩陰を探して所持していたツェルトを設営し、女性客hに加えて歩行困難になった女性客2人(g、j)と付き添いの男性客D、ガイド乙(メインガイド)の計5人がこの場でビバーク(緊急野営)することとなった。
この場でも客から救助要請の要望が出たという。

12時頃、客10人(A、B、C、E、a、b、c、d、e、i)と付き添いのガイド丙(サブガイド)は、トムラウシ山頂を迂回し西側の平坦なコースで下山を続行した。一行はビバーク地点から少し離れた岩陰で昼食を摂ったのち出発したが、南沼キャンプ場手前で男性客Eと女性客eが列から遅れ出したため、男性客Eには男性客B、女性客eには女性客bが付き添った。
このとき、ガイド丙は遅れた人を待つことなく大急ぎで進んだため列が伸びて全員を確認できなくなった。ガイド丙のそばにいた女性客aは、「どなたもついてきていませんよ。待ってあげなくていいんですか」と声をかけたが、ガイド丙は「救助を呼ばなきゃいけないから、早く下りる」と答えた。

女性客bは歩けなくなった女性客eに手を貸していたが、トムラウシ分岐の少し先で倒れている女性客dを発見し、2人の腕を抱えながら下山を開始した。そこへ男性客Cが通りがかったため、bはサポートを依頼した。その後Cとbは2人を引っ張って雪渓を滑り降りたが、Cは「自分のやれる範囲を超えている」と思い、1人で歩き去った。bはなおも2人を引っ張って歩いたが、足がつりそうになったため岩陰に腰を下ろした。この時点ではd、eの意識はあった。

男性客Bは意識朦朧としてしゃがみ込んだ男性客Eのサポートを試みるが、やむなく諦めて先へ進むと女性客3人(b、d、e)に追いついた。bは追いついてきたBに対してd、eのサポートを頼むと、ガイド丙を呼ぶために先行した。
男性客Bは女性客d、eとともにトムラウシ公園上部まで進んだ。13時40分、d、eは意識不明となり、呼びかけにも応えなくなったためBはサポートを諦めて2人のもとを離れた。男性客Cはトムラウシ公園付近でビバークのための場所を探したが、追いついてきた女性客bに「ビバークしたら死んじゃう。一緒に頑張りましょう」と励まされ、歩き出した。

14時頃、前トム平とコマドリ沢分岐の間でガイド丙が座り込んだ。女性客aが「起きて。子どももいるんでしょ」と声をかけたら、ガイド丙は立ち上がって再び歩き始めた。

15時ごろ、ガイド丙と女性客aが「前トム平」に到着した。aは1人残されて迷い戻っても分かるよう写真を頼んだが、ガイド丙にその余裕がなかったため自分で撮影した。霧や雲で視界は悪かったが、この時点で雨や風は弱まっていたという。aは地図を持参していたが前トム平以降は位置がよく分からなかったという。 写真撮影の少し後、偶然女性客aの夫からaの携帯電話に着信があり、ガイドに頼まれ最初の110番通報を行った(15時55分)。
警察に現在地を聞かれガイド丙に代わったが、ガイド丙もろれつが廻らない状態だったという。

やがてaの携帯電話のバッテリーが切れたため、ガイド丙は自分のザックから携帯電話を取り出して連絡を試みたが、ガイド丙はハイマツの上に寝そべってメールを打ち続けた。
そのうち男性客Aが下りてきて、aはAとともにガイド丙を40分以上励まし続けたがガイド丙は歩くことができず、ガイド丙を残してAとともに下山を続行した。続いて下山してきた女性客bと男性客Cは、ハイマツの上に倒れ意識朦朧としているガイド丙に遭遇した。bはガイド丙を励ましたが、Cは一声だけかけて先に一人で下りて行った[28]。bはその後もしばらくガイド丙に声をかけ続けていたが、そこへ下りてきた男性客Bと相談し、ガイド丙をその場に残して2人で下山することを決めた。

19時頃、男性客Bと女性客bは男性客Cと遭遇した。3人はしばらく一緒に行動したが、Cは途中でビバークすることを決め、2人と別れ30分ほど仮眠した。
女性客cは女性客iと行動をともにしていた。16時頃に2人はトムラウシ公園上部で休憩をとったが、iは座り込んだまま動かなくなった。cはiにシュラフをかけて介抱したが、16時28分、iは仰向けに倒れ意識不明となった。

18時半頃、cはiが冷たくなっていることを確認したが、夜間の下山を避けるためビバークして救助を待つことに決めた。一方、北沼付近のビバークではガイド乙がツェルトを張って女性客3人(g、h、j)を内部に寝かせた。ガイド乙は男性客Dに女性客3人の付き添いを頼み、16時30分頃にメール送信のため単身南沼キャンプ場へ向かった。

16時38分、ガイド乙は南沼キャンプ場へ向かう途中、同社の札幌営業所に社長宛てで「すみません。7人下山できません。救助要請します」「4人くらいダメかもしれないです」と切迫したメールを送信した。
南沼キャンプ場付近では倒れている男性客Eを発見するが既に脈はなかった。
南沼キャンプ場には登山道整備業者が残していたテントや毛布、ガスコンロがあったため、ガイド乙はそれらをビバーク地点に持ち帰った。

18時頃、ガイド乙はビバーク地点に戻り、持ち帰ったテントを設営してガスコンロに火をつけて保温を行った。18時半ごろには携帯電話がつながったため、ガイド乙は新得署に携帯電話で連絡し、男性2人(ガイド乙、D)、女性3人(g、h、j)のビバークと近くに生死不明の男性1人(E)が倒れていることを伝えた。その後女性客gは行動食を食べられるまで回復したが、19時頃にj、20時頃にhが意識不明となり、それぞれ心臓マッサージを行なったが蘇生しなかった。

18時ごろ、新得署員3人が同山短縮登山口に車両2台で到着(110番通報から2時間経過後)。

22時ごろ、定時連絡の時刻であったがガイド乙から新得署への連絡はなかった。 23時ごろ、署からガイド乙へ電話するが電波不良のため通じなかった。 23時45分、新得町から正式に自衛隊へ救助要請。 23時55分、男性客Aと女性客aが温泉登山口に自力で下山。 (以下略)

トムラウシ山遭難事故  Wikipediaより

65: 
風吹けば名無し ID:MtLB12UF0
乗鞍で暴れまわったキチゲェ熊すき
406: 風吹けば名無し ID:bII0qlfv0
乗鞍岳の熊おもろいやん
422: 風吹けば名無し ID:Rkrb8E+q0
素手で熊を追い払ったと豪語してたおじちゃんがいたけど
実は勘違いで
本当は鉈で殺してたって話は最近だっけ

490: 風吹けば名無し ID:dLQIvfOh0
>>422
なんやそれ

乗鞍岳クマ襲撃事件


乗鞍岳クマ襲撃事件は、2009年9月19日に、阜県と長野県の県境に位置する乗鞍岳で発生した、野生のツキノワグマによる襲撃事件。観光客として乗鞍岳を訪れていた人々のうち10人が、次々にクマに襲われ、重軽傷を負う惨事に発展した。なお、メディアや文献においては、「事件」ではなく「事故」と表記しているものも多い。

事件の発生・初の被害者
2009年9月19日午後2時20分頃、乗鞍岳に属する魔王岳の登山口付近にある、畳平バスターミナル(ひだ丹生川乗鞍バスターミナル)では、当時連休中ということもあり、1,000人以上もの観光客が集まっていた。

観光客の1人である68歳の男性A(以下Aと表記)は、妻とこの地を訪れ、カメラで風景を撮影していたところ、突如、魔王岳中腹からクマが全速力で走ってくるかと思うと、バスターミナルに向かって猛スピードで下ってきた。Aはとっさに逃げようとするも、クマの鋭い爪は、Aの肩から腹にかけてと左膝を激しくひっかき、Aは重傷を負った。Aの命は幸運にも無事であった。

登山者を襲う
続いてクマは登山道に移動し、女性登山客B(以下Bと表記)を攻撃。
周囲にいた登山客らは、クマに石を投げるなどしてBを助けようとしたが、クマは落ち着く気配がない。
また、登山客の1人であった66歳の男性C(以下Cと表記)は、Bを救出すべく自分が持参した杖で、力の限りクマの頭を殴るが、それが原因でクマを刺激してしまい、今度はCが反撃された。
クマはCの顔面に向かって前脚を強く振り下ろし、Cは歯と右目を失う重症となった。Cも命は無事だったが、顔や頭の骨など数ヶ所を骨折していたため、大規模な手術を受けざるを得ないまでに負傷した。
様子を見ていた周りの観光客も、襲われている人達を助けると逆に自分が犠牲になるかもしれないため、手が付けられなくなっていた。

銀嶺莊経営者の被害
そして、畳平バスターミナルに隣接する宿泊施設「銀嶺莊」を経営する59歳の男性D(以下Dと表記)は、クマが出たという騒ぎを聞きつけ、様子を伺っていた50人ほどの観光客に「クマが向かってくるかもしれないので、ツアーの方は乗ってきた観光バスの中に、その他の方は近くの建物の中に避難してください」と注意を呼びかけた。
そもそもこの地域は、クマが出没するのは年に2、3回程度であり、それほど多くないと考えられていたため、自治体は特別な対処をあまり行なっていなかった。しかし、Dは、万が一クマが出没した際の恐ろしさは頭に浮かんでいたため、このように自主的な措置を取っていた。しかし、事態はこの後もさらにエスカレートし続ける。

Dと、銀嶺莊の職員である男性E(以下Eと表記)は、クマが観光客らを襲う光景を目にすると、共にクマの至近距離まで接近し、音を立てるなどしてクマの注意を逸らそうとした。しかし、クマは人間に対してさらに敵意を表し、すぐにEに襲いかかる。
Dはなおも音を立てたが、それによってクマの標的はEからDへと転換し、これで5人目の被害者となった。それに気づいたDの息子F(以下Fと表記)は、Dを襲い続けるクマを力一杯蹴り付け、Dを助けようとしたという。後にFは、「父が死ぬかもしれないと思って必死だった。次にクマが自分を襲うことなど一切考えなかった。」と語った。
勇敢な行動を取ったFに対し、クマが反撃しようとしたその瞬間、警備員が運転する軽トラックが、Fとクマの間に突然入ってきたため、Fはクマに襲われずに済んだ。クマの目を盗み、Fは父であるDを救出した。
Dはクマの襲撃で重症を負い、命は助かったが120針を縫う大規模な手術を受けたという。

被害者の救護
バスターミナルでは、1階にある部屋1つを、応急処置用の臨時救護室として封鎖した。そこに、クマの攻撃により負傷した人々が殺到した。
しかしながら現場には医師・看護師がおらず、治療は不可能だった。また、119番通報により救急車を要請したが、畳平バスターミナルが位置するのは標高2702 mの地点であり、日本で最も標高の高いバスターミナルであったため、救急車もすぐには到着できなかった。

パトロール員を襲う
Fらが襲われている間、周囲にいた観光客らは怒号や悲鳴を上げ、駐車場のバスやタクシーはクラクションを鳴らし続けてクマを威嚇した。また、現地の環境パトロール員が軽トラックを運転し、クマに接近させクラクションを鳴らし続けた。
これに怒ったクマはトラック相手に攻撃を仕掛けるも、うまくいかないことに気づいたのか、今度はパトロール員達が集まる駐車場管理人の詰所を襲った。詰所内にいた3人のパトロール員は慌てて外に避難し、詰所の中にはクマだけがいる状態となったため、軽トラックを運転していたパトロール員は、トラックを詰所の入り口を塞ぐように駐車させ、クマを閉じ込めようとした。しかしこの策は失敗。クマは詰所の窓ガラスを割って逃げた。

バスターミナル館内へ侵入
狂ったように暴れるクマは畳平バスターミナルの正面玄関に突進した。ターミナルの建物内には、現場にいたおよそ100人もの観光客が避難しており、。入り口はクマの侵入を防ぐために、机や椅子などでバリケードは作っていたものの、後からの避難者への配慮によりシャッターは下ろしていなかった。
そのためクマはバリケードを破壊し、大勢の人々が殺到するバスターミナル館内に侵入。再び暴れ、クマはその場にいた女性のバス運転手の左耳に噛みつき、重傷を負わせた。また、女性からクマを引き離そうとした従業員ら3人も、引っ掻かれたり噛みつかれたりして負傷した。

ターミナル館内で働く職員G(以下Gと表記)は、客から渡された消火器を持って近づくと、勢いよく泡を噴射した。クマはそれまで、館内の食堂にいたが、消火器による攻撃に驚き、食堂の隣にある土産物屋へと逃げた。Gはとっさに、食堂と土産物店を仕切るシャッターを閉じ、クマを土産物屋の中に閉じ込めることに成功した。最初の被害者であるAが襲われてから40分が経過していた。

事件の終息
この事件により10人(重症3人・軽症7人)が負傷したが、奇跡的に死者はいなかった。
一説にはそれ以上の負傷者がいるとされているが、その理由として被害に遭ったのがお互い面識のない全国からの観光客で、救急車を使わずに自家用車などで病院に搬送された者などが行政の調査にカウントされなかった可能性があるからである。
騒動を起こしたツキノワグマは、事件発生のおよそ3時間40分後の18時前、駆けつけた高山猟友会丹生川支部のメンバー4人によって射殺された。

乗鞍岳クマ襲撃事件  Wikipediaより

110: 風吹けば名無し ID:rRXEhBwJ0
雪の遺書ほんま好き

169: 風吹けば名無し ID:rRXEhBwJ0
札内川十の沢大雪崩事故

札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件


札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件(さつないがわじゅうのさわほっかいどうだいがくさんがくぶそうなんじけん)は、1965年(昭和40年)3月14日に北海道大学山岳部(沢田義一リーダー)6名が日高山脈札内川上流の十の沢付近で大規模な雪崩に遭い遭難した事件。
参加パーティー6名全員が死亡した。


【登山計画】

1965年3月11日から24日までの14日間(行動9日、停滞5日)に渡る春山登山計画として立案された。

北海道大学山岳部では登山計画についてよく検討したうえで登山本部に届出。
万一事故が起きた場合でも北大内に留守本部を設置し、OB等がすぐ出動できる動態をとっていた。

登山計画のコースは以下の通り。

北札内―札内川―十の沢左岸の尾根―国境稜線―カムイエクウチカウシ岳―神威岳(カムイ岳)―幌尻岳―トツタベツ川―八千代下山

パーティーのメンバーは以下の6名。
  • 沢田義一 リーダー。農学部4年
  • 中川昭三 アシスタントリーダー。文学部4年
  • 橋本甲午 農学部4年
  • 松井作頼 教養部1年
  • 坂井文寛 教養部1年
  • 田中康子 教養部2年
パーティーは3月11日に入山した。
3月13日には札内川より十の沢左岸の尾根に到達したようである(遺品のカメラに記録されていた写真より推定)。現地は13日昼頃から無風大雪となり14日未明まで続いた。14日未明、露営中に大規模な雪崩に遭遇する。


【捜索】

予定日となっても沢田隊が下山しなかったことから、捜索隊が組織された。
同時期日高山脈に入っていた他のパーティーから、以下の情報を得た。

[北海道大学山スキー部パーティー]
13日14時頃十の沢の少し下河床から3m程の高さのテラス状に雪洞を掘っている沢田隊を目撃した(これが最後の目撃となった。

[都立大学パーティー]
13日は猛吹雪で、15日は快晴だったが国境稜線には全く人影がなく沢田隊には出会わなかった。

[帯広畜産大学パーティ]
18日、十の沢付近を通過した際、膨大な雪崩の跡を目撃した。これは発生してからある程度日が経っているものだった。
また雪洞等は見かけず、テラスの有ることさえ気がつかなかった。沢田隊には出会わなかった。

こうした情報・状況から、遭難対策本部は以下の推定を行い、沢田隊は十の沢の大雪崩に埋められて遭難したという可能性が極めて高いという結論に至った。

1.沢田隊が札内川から国境稜線へ出て行動した可能性は非常に少ないこと。
2.雪崩の発生は沢田隊が十の沢付近の雪洞で泊まった当夜、及び翌日の可能性が非常に高いこと。

第一次捜索は3月26日に出発し、4月1日に発見に至ることなく引き上げとなった。

第二次捜索隊は5月14日より5月20日まで行われ、またしても手掛かりなく下山。
ただし、北大山スキー部の証言よりデブリの下に沢田隊が設営した雪洞があることが確認された。

このことによりデブリ底部からの遺体発見の可能性は極めて高くなった。


【遺体発見】

6月1日よりパトロールが行われ、6月13日13時10分ついに沢田義一の遺体を発見するに至った。

遺体は直径2m深さ1mの雪洞状の穴に、右手を下にして斜めうつ伏せの状態であった。
右のポケットより「処置・遺書」と書かれている地図を発見した。
地図の裏には2,000字を超える遺書が書いてあり(雪の遺書)、沢田リーダーは雪崩のデブリのなかで4日間生存していたことが明らかになった。

6月16日テントが発見され、沢田リーダー以外の5名全員の遺体が発見された。

札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件  Wikipediaより


81: 風吹けば名無し ID:cxQlywCRa
ドナー隊wikiがめちゃくちゃ充実していて読み応えあるぞ

158: 風吹けば名無し ID:9/2U7QVd0
ドナー隊について書かれてる文はあんまりフィクション感ないのもえてな
三毛別は演出盛りすぎ

211: 風吹けば名無し ID:+iDMXrjSF
アメリカ開拓のときの山越えで人肉食う話ってなんやっけ

242: 風吹けば名無し ID:9/2U7QVd0
>>211
ドナー隊

244: 風吹けば名無し ID:4v+SPsDb0
>>211
ドナー隊やろ
西部開拓 悲惨でググったらWikipedia出てきたで

ドナー隊


ドナー隊(Donner Party)、あるいはドナー=リード隊(Donner-Reed Party)とは、1846年5月にアメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。

さまざまな事件や誤りのために旅程は大幅に遅れ、1846年~1847年の冬をシエラネバダ山脈で雪に閉ざされて過ごすことになり、事実上の遭難状態に陥った。開拓民の一部は生存のため人肉食に及んだ。この一件を指して特に「ドナー隊(遭難)事件」「ドナー隊の悲劇」と呼称されることもある。

【概要】
19世紀半ば当時、アメリカ東部から西部への幌馬車による旅は通常4~6か月を要した。しかしドナー隊はユタ州のワサッチ山脈とグレートソルトレイク砂漠を横断するヘイスティングスの近道と呼ばれる新ルートを選択した結果、大幅な遅れを出すことになった。荒れた地形と、今日のネバダ州内にあたるフンボルト川(英語版)沿いの旅程で遭遇したさまざまな困難のために、多数の家畜と幌馬車が失われ、グループ内にも分裂が生じた。

1846年11月初頭、一行はシエラネバダ山脈に差しかかる。しかし早い冬の訪れにともなう大雪に見舞われ、高地に位置するトラッキー湖(現・ドナー湖)付近で雪に閉ざされてしまう。やがて著しい食料不足に陥り、12月半ばの時点で幾人かは救けを求めて徒歩で出発した。カリフォルニアから救援が出発したが、救助隊によるドナー隊の発見は1847年2月半ばまで遅れ、この間一行が遭難してからほぼ4か月が経過していた。結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアに着いたのは48人であり、多数が生存のため人肉を食べていた。

歴史家は、これをカリフォルニア史と西部開拓史におけるもっとも奇怪で耳目を引く悲劇的事件のひとつとしている。
(以下略)

ドナー隊  Wikipediaより



その【1】はこちらからお願いします

三毛別のヒグマ事件みたいな獣害事件のWikipedia 【1】






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