引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1607695954/


books-698480_640

24: 風吹けば名無し ID:/MUN9bFX0
ウルグアイ空軍機571便遭難事故
獣害やないけど見ごたえある
カニバリズムの話や

75: 風吹けば名無し ID:/GIxjbtf0
>>24
下山目指した奴ら普通に帰れたんやっけ?

457: 風吹けば名無し ID:NvIQTSAR0
>>24
生き残った奴がf1レーサーになった後にテレビ番組の司会5つ持ってるとかいうなんかようわからんやつやな



478: 風吹けば名無し ID:0C80yyKm0
>>24
なんか学生の頃宿泊研修で映画か何か見せられたような気がする
418: 風吹けば名無し ID:GluXRM1j0
遭難の時に死んだ仲間の人肉くわなアカンってなったら今でも世間から叩かれるんやろうか
ワイは多分悩んで食べるわ

446: 風吹けば名無し ID:tgC/v+F+0
>>418
アンデスの聖餐見たらええんやない?

525: 風吹けば名無し ID:V+UFlc2i0
>>446
見た


ウルグアイ空軍機571便遭難事故   


ウルグアイ空軍機571便遭難事故(英語: Uruguayan Air Force Flight 571)は、1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。

乗員乗客45名のうち29名が死亡したが、16名は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が死者の人肉で飢えを凌いでいたことをめぐり物議を醸すこととなった。

【事故の流れ】

1972年10月

10月12日(木)
ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族や知人を合わせた一行40名が、チリのサンティアゴでの試合に向かった。一行と乗員5名の計45名はウルグアイ空軍の双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dでモンテビデオにあるカラスコ国際空港を出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンのメンドーサで一泊することとなった。

10月13日(金)
飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈を越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し、山脈の切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ (en) のすぐ南の地点で山脈を抜け、そこから山脈のチリ側を北上してサンティアゴに向かうこととなった。

天候が回復したため、飛行機は午後にメンドーサを出発してすぐに山脈の切れ目を通過していた。ここでパイロットはサンティアゴの航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明した。コースが雲に覆われていたので、パイロットは標準的な通過時間を計算することで西から北に方向を変えるタイミングを図った。しかし、実際には、強い向かい風で機体が減速していたために、山脈の切れ目を抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈の西側に十分に達していないうちに北上を開始した。

山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく、当時は無名だった峰と1度目の衝突をした (CFIT)。この峰は後にセレール峰 Cerro SelerまたはGlaciar de las Lágrimas、Glacier of Tearsと名付けられた。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山 (en) の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。

吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。別の峰との再度の衝突で左翼も無くなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。
乗客3名と乗員2名が機外に放り出され、9名が即死し、負傷が元で初日中に3名が死亡した(死亡12名、行方不明5名、生存28名)。

残った28名は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作った。

ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。
墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。ピアス・ポール・リードは著書『生存者(原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』(生存者のインタビュー文書を題材にしている)でこれに触れている。

生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。

救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。

10月15日(日)
アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトルに雪を詰め、金属片で突いて雪を溶かして水を溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラードは意識を回復し、危篤状態にあった妹スサーナを看病した。正午以降、3機の航空機が通過するのを目撃した。少し遅い時間に飛来した1機は機体の残骸の至近距離を通過し、翼を振った。生存者たちは、発見されたと信じた。午後に、ラグビーチームのキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給された食物の一部が誰かに食べられていることを発見した。

10月16日(月)
ロベルト・カネッサは、酷い傷を負ったラファエル・エチャバーレンのためにハンモックを組み立てた。アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、足にシートのクッションを取り付けることで雪上を歩けることを発見した。

10月17日(火)
カルロス・パエス、ヌマ・トゥルカッティ、ロベルト・カネッサ、アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部を探そうとして墜落地点から出て尾根の反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ずに体力を消耗して引き返した。

10月21日(土)
スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した(死亡13名、行方不明5名、生存27名)。

10月22日(日)
配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。

生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還』ではこう綴られている。

”高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。
我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。
我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった”

乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。

10月23日(月)
生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知った。

雪崩の後に、数人の少年たちは生存の唯一の手段が山頂に登って救援を求めることであると執拗に訴えた。機体はクリコを通過したという副パイロットの主張により、一行はチリの農村部が西へわずか数マイルの地点にあると仮定した。少年達の中で最も強健で健康状態の良かったヌマ・トゥルカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3名が提案に基づき出発し、雪上に残っている機体が滑り落ちた跡を登った。 (以下略)

ウルグアイ空軍機571便遭難事故  Wikipediaより

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92: 風吹けば名無し ID:6goikasV0
遭難系やぞ
104: 風吹けば名無し ID:tAoXwttLa
>>92
クレパスのwikiで出てくる京都の山岳会の女の人の最期がせつない
せめてもの救いは10数年後に親の元に帰れたことやな

112: 風吹けば名無し ID:zJa6I+Bt0
>>104
クレバスに落ちて「私ここで死ぬから退避してー!」って仲間に言ったやつ?

115: 風吹けば名無し ID:tAoXwttLa
>>112
そうまさにそれ

クレバス


クレバス(英語:crevasse)とは、氷河や雪渓などに形成された深い割れ目のことである。片仮名表記ではクレヴァスとも書かれる。

事故例
クレバスに転落して負傷や死亡する事故はしばしば起きている。
例えば、1981年6月10日に天山山脈のボゴタ峰の氷河上で、京都山岳会登山隊の隊員が下山中に雪に覆われて隠れたクレバス、つまりヒドゥンクレバスへと落下した。
クレバスの上までクレバス内の彼女の声は聞こえても、数十メートル下の狭い隙間へ滑落した彼女に救出の手は届かず、結局、彼女自ら生還を断念せざるを得なかった。彼女の遺体は14年後の1995年に発見された。

クレバス  Wikipediaより


36: 風吹けば名無し ID:VnU+Sh/m0
日本にいる生物の中でもヒグマだけは別格やな
38: 風吹けば名無し ID:8FS9Roma0
どうぶつ奇想天外が終わる遠因になった
自信過剰写真家が食われて死んだ奴

事件名が合ったかどうかは知らん

54: 風吹けば名無し ID:xLqOG5b90
>>38
アレはまあTV業界の闇も見え隠れしてるのが

251: 風吹けば名無し ID:qIqH6fL0d
>>38
星野道夫やな

472: 風吹けば名無し ID:Km9FRGOY0
>>38
この時のTBSってオウム事件でただでさえヤバかったのにこの件があったりして呪われてるやろ
143: 風吹けば名無し ID:fm/LxqHm0
wikiじゃなかったかもだが星野道夫っていう動物カメラマンの死はかなりエグかった
230: 風吹けば名無し ID:rxn66VXr0
出版社にもよるんやろうが星野道夫の本って小学校の国語の教科書で紹介されてるんや
子ども向けの写真絵本なんかも出てるし
自然素晴らしいクマは美しいみたいな感じで本人の最期にはあんまり触れられてへんからなんとも言えん気持ちになる
282: 風吹けば名無し ID:U7zz3Jbhp
星野は同日に泊まってた別の動物写真家が施設に泊まらせろってTVスタッフと押し問答する星野を見てるんだよなあ 

星野道夫ヒグマ襲撃事件


1996年7月25日 TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影の為、同地を訪れた。

今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。
小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。
その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。

7月27日 別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。
外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。

ヒグマは体長2 m超・体重250 kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。
アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。

その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告した。
星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。

小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7-8mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。

なお、同地は自然保護区のため銃の所持・使用は禁止されている。
その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。

このためガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。

8月1日 環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。

8月6日夜にはまた星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。
ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。

8月8日の深夜4時頃 星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。

小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。
ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。

ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。
ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。

星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。

星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けた。その知識は基本的には間違いではないが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。

さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。
死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。

以上がTBSが作成した「遭難報告書」による事件の経緯だが、星野が死亡していることもあり、本当に星野が小屋に泊まることを拒否したのか、事件は回避出来なかったのか等の真偽は不明である。

ガイドやアメリカ人写真家の証言と報告書との間に矛盾もあったことから、星野の友人らはTBSに対して公開質問状を送ったが、TBS側は報告書の一部間違いは認めたものの、事故を予測することはできなかったと回答している。
また遺族の意向もあり、追加報告書の作成は見送ったとしている。

星野道夫  Wikipediaより

37: 風吹けば名無し ID:z5trGnBA0
グリズリーマンすこ
40: 風吹けば名無し ID:iYX5VtHjM
グリズリーマンだっけ?
クマに食べられるドキュメント映画
キツネがかわいい

ティモシー・トレッドウェル


ティモシー・トレッドウェル(Timothy Treadwell、生誕名:ティモシー・ウィリアム・デクスター:Timothy William Dexter、1957年4月29日 - 2003年10月5日)は、アメリカの熊愛好家、環境保護主義者、自然主義者、ドキュメンタリー映画制作者、熊保護団体『Grizzly People』の創始者である。

彼は、アラスカ州カトマイ国立公園で13年に渡って夏をハイイログマと共に過ごした。しかし13年目となる2003年10月5日、恋人のエイミー・ヒュグナードと共にヒグマにほぼ完全に捕食された。
トレッドウェルの生涯や作品、そしてその死はヴェルナー・ヘルツォーク監督のドキュメンタリー映画『グリズリーマン』(2005年)により世に知られた。

2003年10月、トレッドウェルは恋人の医師助手、エイミー・ヒュグナード(Amie Huguenard, 1965年10月23日~2003年10月5日, ニューヨーク州バッファロー生)と共に、コディアック島からシェリコフ海峡を挟んだアラスカ半島にあるカトマイ国立公園を訪れた。
ヴェルナー・ヘルツォークは『グリズリーマン』で、トレッドウェルの日記によると、「ヒュグナードは熊を恐れ、熊の存在を非常に不快に感じていた」と述べている。トレッドウェルは、秋にグリズリーがよく餌を食べるサケの小川の近くにキャンプ場を選んだ[8]。彼が公園にいたのは例年よりも遅く、クマが冬になる前にできるだけ多くの脂肪を蓄えようとする時期であった。その秋には食料が不足していたため、グリズリーベアは比較的攻撃的になっていた。

トレッドウェルは例年の時期に公園を出る予定だったが、お気に入りのメスのヒグマを見つけるために滞在を1週間延長した。トレッドウェルは「私は現代文明が嫌いで、人間の周りの大都市にいるよりも自然の中でクマと一緒にいる方が快い。」と言っていた。
しかしこの時点で夏の間に慣れ親しんだクマは既に冬眠に入り、公園の他の場所からトレッドウェルの知らないクマが移動してきていた。亡くなる数時間前にトレッドウェルが撮影した最後の映像の中には、死んだサケの一切れを求めて何度も川に飛び込んでいくクマの映像が含まれていた。
トレッドウェルはその映像の中で、「その特定の熊の周りでは全く心安く感じなかった」と述べている。『グリズリーマン』の中でヘルツォークは、トレッドウェルが自分を殺したクマを撮影した可能性を示唆している。

10月5日の正午頃に、トレッドウェルは衛星電話でカリフォルニア州マリブの友人と会話した。
翌日の10月6日、コディアック島のエアタクシーパイロット、ウィリー・フルトンはトレッドウェルとヒュグナードの送迎のために彼らのキャンプ地に到着したが、熊がいた以外は何もなく、地元の公園管理者に連絡した。
調査の結果、夫妻のバラバラになった遺体が発見された。トレッドウェルの頭部、背骨の一部、腕時計をつけたままの右前腕と手は、キャンプから少し離れたところで発見された。ヒュグナードの遺体の断片は、破れて崩れたテントの横で発見され、部分的に小枝と土の塚に埋まっていた。
キャンプ地にいた一頭の大きな雄のハイイログマ(Bear 141とタグ付けされた) は二人の遺体を取り戻すためにパーク・レンジャーによって射殺された。2頭目の思春期のクマもまた、しばらくしてからパークレンジャーに突撃して殺された。『Bear 141』の現場での剖検では、指や手足などの人間の体の一部が発見された。
若いクマは、それが壊死する前に他の動物によって食い尽くされた。カトマイ国立公園85年の歴史上において、これが初めて認知された熊による殺人だった。

現場でビデオカメラが発見され、攻撃中に作動していたことが証明されたが、警察の発表によると、6分間のテープには、ヒグマがトレッドウェルを襲い殺害した時の声と叫び声だけが記録されていたという。
テープはトレッドウェルが襲われていると叫ぶところから始まる。テープには音だけが録音されていたことから、警察官はカメラがダッフルバッグに詰め込まれている間か、夜の暗闇の中で攻撃が行われたのではないかとみている。
『グリズリーマン』で、 監督のヘルツォークは、カメラのレンズキャップがつけっぱなしになっていたと主張し、攻撃が起きた時にトレッドウェルとヒュグナードが別のビデオシーケンスの準備をしていたことを示唆している。
カメラは攻撃の直前に電源が入っていたため、おそらく音が鳴っていたと思われるが、カメラは6分間の音声を記録しただけでテープが切れてしまった。しかし、これはトレッドウェルへのクマの最初の攻撃と彼の断末魔の声、ユグナードがトレッドウェルに死んだふりをするように言った後のクマの後退と、彼女が熊を攻撃した時のクマの後退、そしてトレッドウェルを連れ去って森の中に帰ってゆくクマを記録するのには十分な時間であった。(以下略)

ティモシー・トレッドウェル  Wikipediaより

393: 風吹けば名無し ID:536Bl9Hk0
アマプラでみたブラックフットとかいうカップルが熊に襲われる映画は結構おもろかったな
低予算丸出しで熊のクオリティはアレやけど
434: 風吹けば名無し ID:dLQIvfOh0
>>393
鹿の死体だけ異様にクオリティ高かった記憶


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44: 風吹けば名無し ID:0/gSYn2N0
チャンパーワットの虎はなるほどと思った
人を食うのは理由があるもんやね
286: 風吹けば名無し ID:xEklejTv0
チャンパーワットの人食いトラ

チャンパーワットの人食いトラは、19世紀の末から20世紀の初めにかけてインドとネパールで少なくとも436人を殺害したと言われる1頭のベンガルトラである。
この犠牲者の数は、単独の猛獣による獣害事件としては史上最悪のものとしてギネス世界記録に認定されている。

314: 風吹けば名無し ID:HhKvwRJF0
>>286
ネパール追い出されてインドでもっぺん食い始めたの、インド人たまったもんやないやろこれ

378: 風吹けば名無し ID:Udhl9KqLr
チャンパーワットの人食いトラのwikiしょぼすぎるわ

チャンパーワットの人食いトラ


ヒマラヤ山脈に近いネパールで、1900年頃からジャングルを行く人々が何者かに待ち伏せされて襲われるようになり、何十人もが犠牲になった。付近の住民たちは一連の事件を悪魔の仕業であるとか、神の祟りであるなどと噂するようになった。しかしやがて、逃げ延びた生存者の証言などから、1頭のトラが犯人であるとわかってきた。

このトラを狩るためにハンターが送り込まれたが、成果はなかった。犠牲者が200人を越えた頃、ネパール政府は国軍(Nepalese Army)の投入を決定した。国軍はトラを捕獲することも射殺することもできなかったが、トラをネパールから追い出すことには成功した。

逃げたトラは、ネパールとインドの国境になっているシャールダー川を渡ってインドに入り、クマーウーン地方で人間を襲い始めた。トラは以前よりも大胆になり、真っ昼間から村の近くを徘徊して人間を殺すようになった。地元の住民たちは恐怖のあまり、森の中からトラの唸り声が聞こえただけで職場を放棄するようになり、この地方の住民生活にも支障をきたすようになった。

1907年に、このトラはイギリス人のハンターであるジム・コルベット(英語版)によって射殺された。トラはチャンパーワットの町で16歳の少女を殺して食べた際に、血痕と足跡を残していった。コルベットはその血の跡を追跡したのである。
コルベットはトラを発見して射殺した。この大手柄は300人ほどの住民によって確認された。トラの死体を検分したところ、性別はメスで、全長は約2メートル50センチ、右側の犬歯が上下とも折れていて、上側の犬歯は半分しかなく、下側の犬歯は根本から失われていた。
コルベットは、このトラは何らかの事故で犬歯を半分失ったため、満足に野生動物を狩ることができなくなり、力の弱い人間を襲って食べるようになったのだろうと推測している。このトラの犬歯が折れた原因は不明であるが、ネパールに住んでいた時にハンターに撃たれたことによるとする説もある。

このトラによる犠牲者は少なくとも436名を数えたが、これはあくまでもはっきり記録の残っている者の数だけであり、実際の犠牲者の数はもっと多かったであろうと考えられている。 (以下略)

チャンパーワットの人食いトラ  Wikipediaより


266: 風吹けば名無し ID:kQOYbTQdx
登山でたくさん死ぬやつ面白かった

307: 風吹けば名無し ID:W8p25/X6a
>>266
トムラウシか?

ワイは木曽駒ヶ岳で小学生たちが遭難した奴が印象深いな
実際自分も登ったことあるだけになんとも言えんかったわ

「嵐になり、一行は山頂の山小屋に避難しようとしたが、山小屋は心ない登山者により放火されていた」

この下りが忘れられん
このレベルの悪行を「心ない」で済ますんじゃねーよ

331: 風吹けば名無し ID:HhKvwRJF0
>>307
これ最後どうなるんや

383: 風吹けば名無し ID:W8p25/X6a
>>331
放火されてボロボロになった小屋でなんとかビバークしようとするも、子供が一人死んだところで全員パニック、引率の大人が真っ先に逃げ出して、散り散りで下山しようとした子供たちもたくさん亡くなった(凍死)

校長は助かろうと思えば助かったけど、子供が亡くなった時点で生きては帰れないと山に残った

「聖職の碑」って小説にもなってるから読んでみると良いよ

439: 風吹けば名無し ID:kQOYbTQdx
>>307
読んできたけど放火したって書いてなくない?
どこや?

465: 風吹けば名無し ID:W8p25/X6a
>>439
放火の下りは「聖職の碑」の記述やな
前はwikiにも書いてたんやけど

476: 風吹けば名無し ID:XELyOXi7a
>>465
Wikipediaから消されたってことは嘘なんやろ

506: 風吹けば名無し ID:U4YyXSbe0
>>476
嘘なんじゃなく小説とか著作権があって一つだけの出典の文章まんまだと消される
岡田更生館がそれ

511: 風吹けば名無し ID:oyWqwmFJa
>>476
地元消防と生存者の証言から燃えたことは間違いないらしい

失火の可能性を捨てきれんってことかな

496: 風吹けば名無し ID:W8p25/X6a
>>465
生存者と地元消防の証言によると、燃えてたことは間違いないらしい
失火の可能性を捨てきれんってことかな

508: 風吹けば名無し ID:uXvXE3sux
>>465
見たら失火って書いてあるな

木曽駒ヶ岳大量遭難事故


木曽駒ヶ岳大量遭難事故とは、1913年(大正2年)8月26日から翌日にかけて襲った台風による悪天候に巻き込まれ、木曽駒ヶ岳を登山中の教員・生徒ら38人が遭難、うち11人が将棊頭山付近で死亡した山岳遭難事故である。のちに作家の新田次郎がこの事件をモデルとして小説『聖職の碑』を著し、映画化もされた。

事故の経緯

8月26日
遭難したのは、集団宿泊的行事で入山していた長野県上伊那郡中箕輪村の中箕輪高等小学校(現在の箕輪町立箕輪中学校)二年生25人を含む総員38人の一行であった。引率者は校長の赤羽長重と部下の征矢隆得(訓導)、清水政治(准訓導)であり、一行には同窓会員の10人も加わっていた。

計画では8月26日午前5時に出発、内ノ萱から行者岩、将棊頭山を経て濃が池へ至り、中岳の稜線を通って木曽駒ヶ岳に登頂、山頂付近で野営し、27日午後に下山・帰校の予定であった。

折悪しく出発後に動き出した台風により急速に天候が悪化し、行程に遅れが出たこともあって、頂上付近へ到達したのは午後8時という非常に遅い時間だった。この頃にはすでに暴風雨になっていたため小屋(現在の宝剣山荘)に避難するが、小屋の損傷が激しく焚き火をするための燃料もなかったため暖をとれなかった。雨が氷結したとの証言から気温は零下にまで下がっていたものと思われる。

8月27日
一同は午前9時ごろまで小屋の中で耐えるものの暴風雨は収まらず、生徒の一人、平井實が低体温症で死亡する。
さらに古屋時松、唐澤武雄の二人が低体温症で人事不省の状態に陥ったことから下山を決定する。清水訓導が固く小屋を出ることを禁じていたが、パニックを起こした生徒が飛び出したという説もある。
征矢訓導が救助を求めるために先行し、赤羽校長が唐澤を、清水訓導が古屋を背負い小屋を後にした。
濃ヶ池付近まで到達したところでさらに寒気と風雨が強まったことで唐澤が息を引き取り、赤羽校長も力尽きた。清水訓導が背負っていた古屋も死亡する状況の中で必死の下山を続け、ようやく高木のある樹林帯までたどり着くが、指導者である校長が死亡し、二人の訓導も前後に大きく離れてしまったため生徒や同窓会員たちは自分の判断で行動するしかなかった。
生徒たち20人余りは死の危険を冒しながら午後1時頃にようやく内ノ萱にたどり着き、村人たちの救護を受けた。

遭難の急報を受けた内ノ萱と周辺の村ではすぐに救助隊が組織され、中箕輪駐在所の茂木巡査をはじめとする20人が出発。伊那警察署から40人の捜索隊が組織され、郡役所からも書記と医師が、字横尾からも20数名が、赤穂分署から巡査3人と補助の人夫数人が出発した。中箕輪村の8箇所の消防夫600-700人も捜索のため集められた。
8月28日
午前1時に第一次捜索隊が出発し、安否不明者の捜索が行われた。この捜索隊により赤羽校長と唐澤武雄が収容された。

午前7時に170人近い大人数からなる第二次捜索隊が出発し、午前11時ごろ内の萱付近で迷っていた有賀繁雄、小嶋覚の二人を発見した。二人は下山中に道に迷い、登ってきた道ではなく権現づるねの稜線を下って内ノ萱の近くまで到達したものと思われた。また、低体温症で倒れている清水訓導と生徒二人を救助したほか、5人の遺体を発見・収容した。のちに発見された遺体と合わせ、最終的に死者は11人となった。(以下略)

木曽駒ヶ岳大量遭難事故  Wikipediaより

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三毛別のヒグマ事件みたいな獣害事件のWikipedia 【3】
 





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