引用元: https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1648420047/

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1: 名無しさん ID:pCXE
山とか絶対行きたくなくなった

八甲田雪中行軍遭難事件   


八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。

【雪中行軍】
日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は10年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなる。

雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した。

行軍の目的

  • 青森歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。対象となった経路は「青森 - 田代 - 三本木 - 八戸」間で、最大の難所である青森 - 田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された。行軍経路は田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。
  • 弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。経路は「弘前 - 十和田湖 - 三本木 - 田代 - 青森 - 浪岡 - 弘前」間で総延長224km。日程は1月20日より11泊12日の予定であった。 なお、両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある。(以下略)

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八甲田雪中行軍遭難事件  Wikipediaより

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2: 名無しさん ID:lyVZ
直立したままって神話かよ

14: 名無しさん ID:lMjU
>>2
wiki見てないけどこういうこと?

http://open2ch.net/p/livejupiter-1648420047-14-270x490.png より引用
1648420047-14-270x490

19: 名無しさん ID:5QKo
>>14
これは雪まつり

27: 名無しさん ID:H5Qu
>>19

3: 名無しさん ID:if89
友達喰うのほんまこわい

4: 名無しさん ID:pCXE
>>3
クールー病になるんやろか

5: 名無しさん ID:pCXE
エベレストの頂上も遺体がわんさか転がってて、登山者の目印になってるらしいな。

こんなのに登る奴がなんであんなにいるんや

11: 名無しさん ID:xcnt
これも怖い

トムラウシ山遭難事故   


トムラウシ山遭難事故(トムラウシやまそうなんじこ)は、2009年7月16日早朝から夕方にかけて北海道大雪山系トムラウシ山が悪天候に見舞われ、ツアーガイドを含む登山者8名が低体温症で死亡した事故。夏山の山岳遭難事故としては近年まれにみる数の死者を出した惨事となった。

この事故は後に、日本山岳ガイド協会による第三者で構成する特別委員会「トムラウシ山遭難事故調査特別委員会」が設置され、2009年8月25日から5日間にわたり、金田正樹医師をリーダーとする4名のチームが2班に分かれ、遭難事故グループの行動や事故の事実関係を調査し、有識者の意見とともに報告書にまとめられた。

【7月16日(事故当日)

8時30分
出発からおよそ3時間後の8時30分ごろ、パーティはロックガーデンに到着した。ロックガーデンは北沼手前の一面の岩礫帯だが、ここまでですでに通常の倍近い時間がかかっていた。依然風雨が強く、岩場であるため足並みが乱れ始めながらもまだまとまって進んでいた。9時30分頃、ロックガーデン途中で静岡のパーティが追い抜いていった[13]。この頃から66歳の男性客Eの歩行がふらふらし始め、そのうちに気力を失い座り込むようになった。一行はロックガーデンが終わった先の沢状の窪地で風を避け休憩、食事と水分補給をした。その上の広い平らな場所で風がいっそう強くなった。
10時
10時ごろ、通常なら3時間のところを6時間近くかけて山頂下の北沼に到着した。北沼の様相は一変しており、大雨で沼から溢れた水が大きな川(幅約2メートル、水深は膝ぐらいまで)となり登山道を横切っていた。一行は川の中に立ったガイド乙とガイド丙の助けを借り何とか渡りきるが、パーティ全員が渡りきるまで吹きさらしの場所で待機することになり、多くの人がずぶ濡れになっていた。その際、川に入っていたガイド丙は客を支えている際によろめいて全身を濡らし、低体温症の加速を促した。これが特にガイド間の情報共有・判断に影響を与え、後述するコミュニケーション不足にもつながっていった。
10時30分
午前10時半ごろ、北沼の川を渡ったすぐ先の分岐手前で68歳の女性客fが低体温症のため歩行困難となった。ガイドらが懸命に体をさすったり声をかけたりしたが、ガイドらの声かけにもあまり反応しなくなり意識が薄れていった。渡渉時点では低体温症の典型的な前兆がなく、急激だった。ガイド達がfの対応に追われている間、一行はガイドの指示によりその場で1時間から2時間近く待機させられた。一行は座り込んだ人を囲んで風よけを作ったが、「寒い、寒い」と叫び声を上げる女性客も居た。さらに62歳の女性客dが嘔吐し奇声を発し始めたため、男性客Cはリーダー甲に対して「これは遭難だ。救援を要請しろ」と怒鳴った。 結局一行は男性客Dが所持していたツェルト(小型の簡易テント)を設営し、リーダー甲が歩行困難の女性客fに付き添うために残り、他のメンバーは先に進んだ[16]。 前設営地から距離を置かずして女性客hが意識不明に陥った。ガイド乙はここで岩陰を探して所持していたツェルトを設営し、女性客hに加えて歩行困難になった女性客2人(g、j)と付き添いの男性客D、ガイド乙(メインガイド)の計5人がこの場でビバーク(緊急野営)することとなった。この場でも客から救助要請の要望が出たという。(以下略)

トムラウシ山遭難事故  Wikipediaより

13: 名無しさん ID:1KCW
事故るのって紐解くと謎行動ばっかりなんよね

15: 名無しさん ID:VP1o
弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、ほぼ全行程で案内人を立てたおかげで見事に踏破を果たした。

やっぱ事前準備って大事なんやなって

16: 名無しさん ID:lMjU
エベレストも死者数多いけど一番多いのは実は立山連峰だっけ?

17: 名無しさん ID:bvPB
>>16
遺体が警告用のマーカー扱いのエベレスト

20: 名無しさん ID:nGFm
矛盾脱衣とかいう恐怖

21: 名無しさん ID:ydoq
ディアトロフが不気味すぎるで


22: 名無しさん ID:5QKo
谷川岳「いらっしゃいな」

24: 名無しさん ID:MxJm
日本は>>22も言ってる通り谷川連峰やな


23: 名無しさん ID:dTEs
極限状態において発狂し始める人が続出とか怖すぎる

25: 名無しさん ID:Ohl2
なんかこっそり未踏峰登ってみたい

それで頂上にさとるの顔写真置いていきたい

26: 名無しさん ID:3Yqn
救出されてからタヒぬ人はなんでなんやろ

29: 名無しさん ID:8wvL
>>26
ほっとしたんやろな

28: 名無しさん ID:B97e
谷川に行ったとき霧が凄いのにウッキウキで谷川登りに行く人見たわ

30: 名無しさん ID:U31k
クレバスに転落して負傷や死亡する事故はしばしば起きている。

例えば、1981年6月10日に天山山脈のボゴタ峰の氷河上で、京都山岳会登山隊の隊員が下山中に雪に覆われて隠れたクレバス、つまりヒドゥンクレバスへと落下した。

クレバスの上までクレバス内の彼女の声は聞こえても、数十メートル下の狭い隙間へ滑落した彼女に救出の手は届かず、結局、彼女自ら生還を断念せざるを得なかった。

彼女の遺体は14年後の1995年に発見された。

これ救出の時の話が悲しくて嫌い

31: 名無しさん ID:dTEs
>>30
ワタシここでタヒぬから―って話してたやつやな

32: 名無しさん ID:U31k
>>31
せや…

33: 名無しさん ID:dTEs
絶望しかない

34: 名無しさん ID:Ser4
スコットが有名やけどアムンゼンも遭難して亡くなってるんよね

35: 名無しさん ID:qgVb
谷川岳が危険言われるのは一般ルートやなくてくっそ脆い岩壁からクライミングするルートやで